全く容認できない考え
試合に出られないのも貴重な人生経験とか言う人。コーチとかで、特定の子供を試合に出さないことの言い訳にこれを使う人がいるのだが、はっきり言ってこれは人格を疑うレベルでおかしな発言である。
子供の人生の責任を取れない人がそんなこと言うのはやめてほしい。いつもベンチを温める子は、もう十分そういう経験を積んだのだから。だからなんとしても試合に出たいと思うのじゃないか。それとも、子供の人生、ずっと負け続けることが良い経験だとでも言うのだろうか。
生殺与奪権を握る者が言うべきでない言葉
出す出さないの決定権を握る者が、安易に出られないのも経験だなどと言うべきでない。出さない理由があるから出さないのであるから、精神論ではなく、なぜ試合に出さないかを合理的に説明すべきである。どんな子供でも、合理的に説明されれば、納得はしないかもしれないが理解はする。出られない悔しさを自分の中で昇華させることも確かに人生経験だとは思うが、それを精神的教育かのように言ったり、結果的にその辛さを一生繰り返すことに意味があるかのような発言は全くばかげている。肯定どころか、こういうことを言う人は、自分の説明力の無さや、恣意的選手起用を、この言葉でごまかそうとしている気がする。でも、こんな安直で酷い言い訳は、コーチの人としての底の浅さを説明しているだけである。
出られない頻度次第で認められるだけの話
試合に出られないことも経験というのは、いつも出ているレギュラーの子がたまに出られないことがあった時とかに当てはまる言葉である。
いつも出られない子に対してこれを言うのは、その子供に対して失礼なことである。そう言う人は、色々なことを教育的な発想につなげるので、得てして挨拶に厳しかったりする。しかし、ずっと試合に出られない子に経験とか言ってしまう人に挨拶ごときで厳しく指導されたくない。試合に出ずしてサッカーをやっていると言えると本気で考えているのだろうかと聞いて見たい。
もちろん練習は大切であるが、それは試合のためのはず。
宇佐美選手の正論
宇佐美貴史選手の、"試合に出られない選手は、サッカー選手じゃないと言ってもいい。出なければ意味がない。試合に出られないチームなら、すぐに退団したほうがいい"という言葉は、プロだけでなくアマチュアも、いや、小学生の場合は、プロ以上に当てはまるのではないか。仕事ではなく、人生を豊かにするためにサッカーをしているのだろうし、そうであるべきであるから。
言葉の使い方に気をつける
そもそも貴重な経験というのであれば、それが定常化しては貴重ではなくなる。ダイヤモンドが道端にゴロゴロ転がっていたとして、それを人は貴重と言うだろうか。
このことはサッカー少年の親もコーチも常に気にとめる必要があると考える。勝負はともかく、試合をしなければそれはサッカーをやっているとは言えない。サッカーをやるからには試合に出ることは必要なことなのは当たり前と、親もコーチも考えるべきなのである。