時々のこと

子どものサッカーについて。小学校から遂に高校までたどり着きました。その他時々のこととか。

厳しいけれど上手くなければ試合には出られない


サッカーが上手…というのは、どういうことなのかは人によって違うかもしれないけれど、少なくともコーチには、チームの同じポジションを争う子よりうまいと思われなければ試合には出られません。でも、これは絶対的にうまい必要はなくて、「チームの同じポジションを争う子より」上手ければ良いのです。

試合に出るためのサッカーの上手さは相対的なもの

サッカーが上手い下手というのは所属するチーム次第で変わる相対的なもの。あるチームで一番上手いと言われても、他のチームでは試合にさえ出られないなんてことはよくあることです。うちの子もこのパターンにはまっています。試合に出られる出られないというのが、サッカーの上手さの差であれば、これは仕方がないことです。しかし、コーチも人によって色々な考え方があるし、コーチが人格者とは限らないから、試合に出られないのはサッカーの上手さの差とだけ言い切ることはできないですが、原則的には上手くないと試合に出られないというのは否定できないです。

育成年代だからと言うこと

しかし"小学生は育成年代なのだから、下手でも試合に出すべきである"という考え方もあります。でもこれは、子供の親が心の内で思うのは勝手ですが、コーチに直接言って良いことではないと思います。誰を試合に出すかは、チームの方針、コーチの考えで決めるべきものであり、誰が見てもその采配はおかしいというコーチの人格そのものに明白な問題がありそうな場合ではなくて、サッカーの上手さや、教育的に見てその正当性が一応は説明できる起用法であれば文句を言ってはならない。つまり、サッカーが上手くなければ、試合には出られないという原則は間違いとまでは言えません。というか、そうでなければ浮ばれません。

教育者的発想をするなら徹底して欲しい

ただ、スタメンかどうかギリギリの子が集合時間に遅刻したからといってその日の試合に全く出られないというのはどうなのでしょう。まあ、教育的には一応もっともな理由ではあります。しかし、それから大分経って、チームの要の子が大きな試合で大遅刻してきた際には、何事もなく当日の全試合にフル出場したらどうでしょう。これ、現実に見ました。しかし、コーチは分かっててやってるわけではなく、スタメンギリギリの子に対し、真に教育的な意図を持って試合に出さなかったのだろうとは思います。それはそれで合理的理由です。ただ、主軸の子の場合、その子の教育的にどうのより、試合に勝ちたいというコーチの欲が勝ってしまったのでしょう。もしくは、前の教育的なことなど全く忘れていたか、思い出しさえしなかったか。試合にとってどうでも良い選手は、試合に出すことだけでなく、しつけ的な観点にも気づいて指導するが、かなめの選手はいないと勝てないという気持ちがコーチにあるならば、教育的なことなど選択肢として思いつきさえしないということはありそうです。この行動の不一致はコーチが教育者としては未熟であるから起きるものですが、そもそもサッカーのコーチに教育的であることを期待するのが間違っている気もします。そのような教育を受けているとは限らないですから。そもそも前にギリギリの子にした罰則のことを忘れてしまっていた可能性が高いと考えられますし、行き当たりばったりの教育論とも考えられます。とはいえ、子供も親もそういう取り扱いは試合に出られる出られないに関わるので、コーチが何をどう言ったかは良く覚えており、人格問題とまではいえないが、気まぐれな教育者を気取るのは、まあ、やめてほしいものです。遅刻しても上手ければ出すを徹底すれば良いだけですから。逆にスタメンギリギリの選手を遅刻が理由で出さないならば、かなめの選手が遅刻してもださない。それが教育的な考えだということを徹底してほしい。

総合的に上手くなくとも試合に出ることは出来る

ただしここでいう上手ければ出せばよいというのは、総合的に見てサッカーが上手くなければ出られないかという意味かというと、そうとも言えない。コーチは子供ごとの得意不得意データを持っている。総合的には劣っていても、対戦相手の特徴から、総合的能力が劣る子を起用することは普通である。例えば、足元がそれほど器用でなく足もそれほど速くない子でも、ドカンと離れたところからシュートが打てるなら、どうしても点が必要な時に使うとか。

だから、自分の子が試合に出られない場合に上手くならなきゃと総合的なサッカー能力を上げようとするのは、もちろん間違ってはいないが、総合的サッカー能力で、チームのライバルに差をつけるのは時間がかかる。
だから、試合に出るためには、トータルのサッカースキル向上のみでなく、一芸を磨くことも有効な方法であると考えています。