これは、チューリップに似たズームアップ構成をしています。
しかし、チューリップの時に比べズームアップのスケールが違う。
チューリップにおける花壇全体から個々のチュ―リップの花へズームのようなデジカメでできる程度のズームではない。
スケールの大きさ
「あんたがたどこさ」
この歌詞を理解するには日本地図から始めなくてはならない。問いを発する側が日本地図を広げて聞くと返ってきたのは、「肥後さ」。
さあ、肥後ってどこだ探せっ。昔の知名だぞ。じゃあ先を聞いてみよう。
歌詞のマトリョーシカ
「肥後どこさ」
「熊本さ」
ああ、熊本ね・・・熊本、あれっ?肥後が既に熊本県のことなんですが・・・
あっ、そうか熊本市か、
次っ。
「熊本どこさ」
「船場さ」
おおっ、あったあった船場町だ。
何故か転調
ここから、なぜだか回答側が一歩的に話し始める。曲調も変わる。
おそらくこれ以上は地図で確認できない領域に入っていったので、問いを発する側が地図をもとに質問できなくなったのである。それにあわせて曲調も変わるという、なんとも素晴らしい構成ではないか。
驚愕のラスト
そして最後は、驚くべきことに、
「煮てさ、焼いてさ、食ってさ」
と個人の食卓にまで至るのである。
これは凄い。
「日本全体」から始め、ズームアップを進めに進め、「一個人の食卓」に至る。
おそらく、現在この世の中に存在する全ての歌詞の中で最もズーム率の高いものであると思われる。
しかも、内容が宗教的であるとかであれば「大宇宙の中の個人の存在とは」という形のズームというより対比で用いられる形態なら考えられなくも無いが、この歌詞は、結論は「山で捕ったタヌキを煮て焼いて食う」と言っているだけである。
この内容を日本全体から始める必然性は全く無い。
意味はないが評価されるべき歌詞
この無意味さが素晴らしい。当然、歌詞の内容自体は????である。何が言いたいんだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。この歌詞はズーム率だけで評価されていいのだ。このような手法は、映画やテレビ、アニメではおなじみである。
地球全体の映像から始まって、大陸の映像にズームアップし街を上空から見下ろし、一つのビルがクローズアップされ、最後に主人公のアップになるような映像を。
「あんたがたどこさ」は、映画もテレビもない時代に、これを歌で実現しているのである。それだけで評価されて良い歌である。