日本語と少年サッカー

広く日本語に関わることとサッカーについて

どうしても解釈困難な歌詞


これまでいくつかの歌詞で現代文的解析を進めてきましたが、中にはこのような解析が困難なものもあります。例えば、「ぞうさん」や「はとぽっぽ」の歌詞。これは難しい。

「ぞうさん」にしろ、「はとぽっぽ」にしろ、幼児向けの歌詞である。幼児でも分かる歌詞。だからこそ国語現代文的には難しいと言える。使える言葉が少ないこともあるが、内容が単純ゆえに何を言いたいのか分からなかったりする。そんな歌詞を敢えて考えてみる。

ぞうさん

まずは「ぞうさん」。
ぞうさんぞうさん
おはながながいのね
そうよかあさんも
ながいのよ
あまりにそのままの歌詞だ。ここから何を読み取れるだろうか。無理に解釈してみますと…
【起承転結】
起:「ぞうさんぞうさん」と呼びかけの形を取り、象を相手に話をしているという状況を提示。
承:呼びかけた者が呼びかけに引き続き本題である「お鼻が長いのね」という質問を提示。
転:「転」だけあってここで発言者が交替。質問者から呼びかけられた側の象が発言開始。質問に対し、素直に「そうよ」と答えるが、それに対し謎の文句「かあさんも…」といいかける。
さ鼻が長い話をしていたのにいきなり「母さん」という異質なものを出してきた。これが転。
結:結びで「母さんも鼻が長い」という異質と思われた鼻の話と母さんが結びつく、と言う落ちで一件落着という構成。
ここで、「そうよ母さんも」を「転」としたが、象の鼻が長ければ母象の鼻も長いというのは当たり前だから、結論がみえているわけで「転」たりえないと思うかもしれない。確かに常識的にはそう言える。しかし現代文的解釈で言えば、その問題文だけから読み取れることしか判断材料に使用してはならない。この観点からは、「そうよ母さんも」といわれても「長いのよ」と続くとは限らない。「そうよ母さんも『おまえの鼻は長いねえ』というのよ」かもしれない。
「真っ赤なお鼻のトナカイさんは」と言われて全てのトナカイの鼻が赤いと思わないのと同様に、次の歌詞で初めて事実が明かされるのである。
…と、解釈を試みましたがやはり面白みに欠ける。童謡としての質とは別に現代文的な解釈ではつまらない歌詞ではないだろうか。それとも私の読み込み不足なのだろうか。だれか「ぞうさん」を解釈して。

ハトポッポ

しかし私にとってもっと解釈不能なのは、「ハトポッポ」である。
ぽっぽっぽ
はとぽっぽ
まめがほしいか
ほらやるぞ
みんなでなかよく
たべにこい
なんだこりゃ。ハトのことを何も考えない一方的な言いっぷり。「まめがほしいか ほらやるぞ」とはハトの人格を完全に否定した発言だ。
この屈辱的発言をされてはプライドのあるハトは食べに来ず、集まるのは荒くれ者や食うや食わずの者ばかりであろう。それなのに「みんなでなかよく たべにこい」という気が知れない。荒くれ者集団に「みんなでなかよく」といっても無理である。メルヘンを離れ実際にハトの集まる場所で豆をまいたらどうなるかわかるでしょう。「みんなでなかよく」はありえない。ありえないことを要求するこの歌詞中の人物は事実を見ていないか残酷なだけである。このような歌詞を子供に歌わせてよいのか。謎の歌詞なのです。