日本語と少年サッカー

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「坊っちゃん」おそるべし(何から何まで無鉄砲)


今回は夏目漱石の「坊っちゃん」を分析。 しかも書き出しの第1行「親譲りの無鉄砲でいつも損ばかりしている」だけに着目します。

無謀にも日本文学の名作でかつ無数の有名無名の学者に論じられてきた作品を題材にすることになりますが、別に私は国文学者ではないので気楽に「このようにも読めるよ」と言うスタンスで進めます。

物語の構成も無鉄砲

このように言い訳をしておいた上でないと、次のようなことは口が裂けても言えない。
すなわち、「『坊っちゃん』は主人公の性格が無鉄砲なだけでなく、その物語の構成自体も無鉄砲だったのである」と。
「坊っちゃん」では、書き出しの第1行でいきなり「これは無鉄砲な話なんだぞ」と示してくれている。この物語は、一人称で「坊っちゃん」と呼ばれる主人公が語るという形式である。その語り手が、自分は無鉄砲であると最初に宣言しているのである。これが夏目漱石のスゴさなのだろう。
やはり文豪である。第一段落からしてばしっと決めている。
そして、その後にいくつか無鉄砲な例が挙げられていく。
”親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある・・・親父が大きな目をして二階から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。”
この親にしてこの子あり、無鉄砲の例でちゃんと親譲りであることを示しているのは文豪の技だ。しかしこんなんで驚いていてはいけない。損ばかりというからには事例は続く。

意味のすり替え

次の段落が凄い。ここでは自慢のナイフを見せびらかすシーンが書かれるが・・・・・。
”何でも切って見せると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指位この通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸いナイフが小さいのと、指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。 ”
これはもはや無鉄砲と言うより自虐嗜好である。無茶苦茶である。切ることの意味がナイフの鋭さではなく、自らを傷つけることにすり替わっている。しかしこの二段落目も「親」という字が出てくる。親指という語ではあるが。
しかし、「今だに親指は手に付いている」には「親譲り」は一生付いて回るということの暗示とも取れる。

親の客観視

坊っちゃんは父親から「貴様は駄目だ駄目だ」と言われたり、「勘当する」と言われたりするが、しかし本人は父親を評して「親父は頑固だけれども、そんな依こ贔屓はせぬ男だ」と言って父親の生き方を評価するような発言をするのはちょっと変な感じがする。親を客観的に見ているのだ。
更には、”おやじには叱られる。兄とは喧嘩する。清には菓子を貰う、時々賞められる。別に望もない、これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。只清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。只おやじが小遣いをくれないには閉口した”と言っている。これもなんだかおかしい。
父親に怒られることはなんとも思っていなく当たり前のように捉え、ただ小遣いをくれないことに少々不満を漏らすだけなのだ。

"おやじ"という語

「坊っちゃん」の中で「おやじ」が出てくるときは、どうも微妙なユーモアがあるような感じがする。そして、無鉄砲話は続くのであるが、父親が死んで兄から遺産をもらった時の行動もこれまた変である。一応「死」という形で父親は絡んでいるのでユーモアを期待していい。
”ことに六百円の金で商売らしい商売がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今の様じゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強ができる。三年間一生懸命にやれば何かできる。”などと言っている。
無鉄砲と言いながらなんて計算高いのだろう。と、思うまもなく次の文が目に入る。

物理はそんなに甘くない

”幸い物理学校の前を通り掛かったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。”
たしかに無鉄砲だ。そしてギャグであるとの表示である次の文が続く。

"今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起こった失策だ。"
ちゃんと親というパワーワードが出てくる。脱帽するしかない。加えて、この学費のエピソードは更に何十ページも先にまたひょっこり出てくる。
”考えると物理学校などへ這入って、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。”と後悔している。
「六百円の金で商売らしい商売がやれる訳でもな」いから「学校に行った」はずなのにこんなこと言うなんてあんた。しかも何十ページも間を置いた念の入った芸である。楽しく流し読みしていたらこの対比の構造に気づかないくらいだ。

四国の中学校も無鉄砲

次に親譲りの無鉄砲が出てくるのは無事物理学校を卒業して八日目のこと。物理学校の校長に四国の中学校の教師にならないかと言われて行きましょうと即席に返事をしたときだ。別にここだけを見ればギャグの要素はないし、今までの無鉄砲小話の羅列から、ようやく物語らしい物語である四国の学校での一騒動がここから始まるのである。 しかし、最後まで読めば分かるが、坊っちゃんの小説の九割のページを占めるこの四国のエピソードも、飛び降りたり、指を傷つけたりするエピソードと同じレベルの無鉄砲な行為例の一つに過ぎないのである。
言いかえると、坊っちゃんは四国の話をばっさり削除した後に残る十ページ程度だけでも構成上は何も困らないのだ。

無鉄砲な構成

これは何ともアンバランスな構成である。
無鉄砲すぎる。
どうしてこんな変な物語構成なのだろうと思った方、思い出して欲しい。この物語の形式と書き出しの第1行を。
この物語の形式は、「坊っちゃん」と呼ばれる主人公が語るというものであり、その語り手が、「自分は無鉄砲である」と最初に宣言しているのだ。そんな無鉄砲な語り手の話なんだから、全体のバランスを考えずに、自分が話したいと思った四国の話を長々としてしまうというおかしな物語構成になっても仕方がないでしょうと、最初にちゃんと言い訳しているのである。

未だ続く無鉄砲

「親譲りの無鉄砲でいつも損ばかりしている」と言っているが現在まで読み継がれているのは、こうした「無鉄砲な仕掛け」があちこちに張り巡らされているためなのだろう。

夏目漱石のスゴミを感じる。