時々のこと

子どものサッカーについて。小学校から遂に高校までたどり着きました。その他時々のこととか。

アンパンマンのねじれの構造~メビウスの輪~


「愛と勇気だけがともだちさ」という解釈困難な歌詞を含む「アンパンマンのマーチ」。
しかし「愛と勇気だけが友達だなんてさみしいやつ、食パンマンやカレーパンマンは友達じゃないのかよ」と突っ込んで終わりにしてはいけない。なぜなら、作詞者は当然その突っ込みを計算に入れて作っている確信犯だからである。

対象年齢と歌詞の内容のギャップ

この歌の歌詞はのっけから、ブっ飛んでいる。
「なにが君の幸せ なにをして喜ぶ わからないままおわる そんなのはいやだ」 って、これを子供に歌わせるなよ。3歳やそこらの子供につきつけるにはあまりに早い。教育上どうのという次元以前に、表面的な意味さえわからないはずだ。幸せを問うのは、せめて思春期まで待てと言いたい。

巧妙な構成

しかし、これだけのフレーズの中に、かなり巧妙な構成が見られる。幼児向けとは言いがたい技巧を施している。
「なにが君の しあわせ なにをしてよろこぶ」と曲を聴く者に問いかける形で始まるが、その直後、
「わからないままおわる そんなのはいやだ」と、その問いに対し、自分で解を出している。国語現代文的には、ここでは、「君」という言葉が無い方がしっくりくる。つまり、
「なにが幸せで、なにをして喜ぶのか、わからないままおわる。そんなのはいやだ」というように。
しかし、敢えて「君」と言う語を入れて質問の形をとっている。もう一度、この部分の歌詞を見て欲しい。しかも、メロディーに乗せずに、普通の日本語の1文としてゆっくりと読んでみてもらいたい。

「なにが君の しあわせ なにをしてよろこぶ わからないままおわる そんなのはいやだ」

おかしいでしょう。違和感ありでしょう。
しかし、これが、あのメロディーに乗れば、あまりおかしさを感じず、皆軽快に歌ってしまう。

何故敢えて違和感を残すのか

今、「君」が無い方がしっくり来ると言ったが、「君」があっても次のように文を変えれば、それはそれでしっくりくるだろう。つまり、

「なにが君の幸せで、なにをして喜ぶのか、わからないままおわる。そんなのはいやでしょう」

つまり語尾を変えるのです。

では、
解釈1「なにが幸せで、なにをして喜ぶのか、わからないままおわる。そんなのはいやだ」
解釈2「なにが君の幸せで、なにをして喜ぶのか、わからないままおわる。そんなのはいやでしょう」
のどちらでもなく、なぜ、敢えて、その混成形である、
「なにが君の幸せ なにをして喜ぶ わからないままおわる そんなのはいやだ」 としたのだろうか。

作詞者は、解釈2のメッセージを送りたいのでしょう。しかし、このメッセージを解釈2のようにストレートに表すと、押しつけがましさが出てくる。聴く者もなんとなくではあろうが、敏感に「強制」された感じを受けるだろう。それを避けるために、解釈1のような自問自答に見える形式をとろうとするのである。しかし今度は、それではメッセージ性が足りないと作者は感じたのだろう。前半に「君」と言う語を入れることで、問いかける感じを出して聴く者の注意をひこうとしたのである。

つまり、作詞者の中で、「伝えたいメッセージがあるが、それを押しつけがましくなく、しかも、聞き流されずにちゃんと伝えたい」という願望があり、その解として、今、歌われているような国語現代文的にはおかしな構成の歌詞ができあがったのである。

幼児に聞かせることの意味

先に、3歳やそこらの子供につきつけるのはあまりに早い、思春期まで待てと書いたが、三つ児の魂百までというように、幼児期に覚えた歌は、年をとっても忘れない。そういう点では、意味が分かろうと分かるまいとに関わらず幼児に覚えさせるのは、思春期になってからつきつけるより刷り込み効果が高いであろう。作者はそこまで考えた上で、敢えて難解な歌詞を書いている可能性が高く、そう言う意味でこの歌詞は凄い。凄すぎである。

ただ、幼児期に刷り込むだけにその内容が厳しくテストされる必要がある。
この歌詞は明らかに思想的メッセージであり、それが若い親や幼い子供の気づかぬところで無意識に刷り込まれているのだから。