日本語と少年サッカー

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アンパンマンはつらいよ


アンパンマンの歌詞の思想性には考慮すべき大きなポイントがある。それは、作詞者が絵本、アニメの原作者と同じやなせたかし氏であるということである。つまり、この歌詞の思想性は、一寸のぶれも無く、アニメの思想と一致すると解釈してよいということである。それはそうでしょう。アニメの原作者が、そのアニメの歌詞を書いているのだから。

愛と勇気だけが友達なのは幸せで喜ぶべきことと考えるアンパンマン

ということは、アンパンマンは、心の中で、「なにがぼくの幸せ なにをして喜ぶ わからないままおわる そんなのはいやだ」と考えてアニメの中で生きていることになる。そして、この考えに基づいて「愛と勇気だけが友達さ」と言っているのである。つまり、アンパンマンにとって、愛と勇気だけが友達なのは、幸せで喜ぶべきことなのだ。

アンパンマンのいう友達と我々のいう友達の違い

通常私たちは、「自分が快適に、悩みも無く暮らすことが幸せだと感じ、自分が楽しいと思うことをして喜ぶ」し、「自分に対し攻撃をかけてこないし、自分も攻撃していく必要の無い人たちの内で特に見知っている人たちを友達だと考えて」いる。
しかし、アンパンマンは違う。アニメでも絵本でも良いから思いだしてみて欲しい。彼は、自分の頭を割ってお腹が減っている動物たちに食べさせてあげるという脅威の自己犠牲精神を発揮するのである。
アンパンマンは強く、いわゆる友達と呼べる人も多くいる。それなのになぜ、あまり良く知らない動物たちにまで身を削って食べ物を与え、更に「愛と勇気だけが友達さ」などというのだろうか。

「自分」の不存在

すぐ理解できるのは、アンパンマンには、「自分」という語が「幸せ」や「喜び」、「友情」を考える際のキーワードにならないのということである。 「自分」が直接「幸せ」や「喜び」、「友情」を感じるのではなく、自分の接する相手が「幸せ」や「喜び」、「友情」を感じてくれるのを見て、自分もそれらを感じるというように、相手があってこそ自分があると捉えているように見える。
だから、先に挙げた、「自分が快適に、悩みも無く暮らすことが幸せだと感じ、自分が楽しいと思うことをして喜ぶ」し、「自分に対し攻撃をかけてこないし、自分も攻撃していく必要の無い人たちの内特に見知っている人たちを友達だと考えて」いるというのは、アンパンマンには。あてはまらない。

普遍的な幸せの追求

更に飛躍して、自分というものを離れた、普遍的「幸せ」、「喜び」、「友情」を求めているのかもしれない。

普通人の言う幸せはすでに得ているアンパンマン

だから、この歌詞の「愛と勇気だけが友達さ」と聴いて、「食パンマンやカレーパンマンのことは友達じゃないのか」というのは、間違っている。普通人が言う「幸せ」「喜び」「友情」は、アンパンマンは既に満たしている。ジャムおじさんを始めとしたアンパンマンに好意的に接してくれる人に囲まれ衣食住も保証され、食パンマンやカレーパンマンのように意気の合った友にも恵まれ、そして、か弱い人々(というより大半は言葉を話す動物たち)が自分を頼ってくれるというような感じで。

優等生の悲哀

では、なぜアンパンマンはそれで満足できないのであろうか。答えとしては、「優等生の悲哀」が考えられる。
アンパンマンには、行動全てが「高潔」で「完璧」であることが常に求められているのである。
アンパンマンは、顔が水でふやけてしまって早く新しいアンパンの顔に取り替えなければならないという場面において、ジャムおじさんが代わりの頭となるアンパンを毎回新たに焼いていることに対して、「早く焼けよ…というか、前もって焼いとけよ」などとは口が裂けても言えないし、アンパンマンを頼ってくる動物たちに対しても「知るか、自分の身を危険にさらしてまでお前のことを助ける義務はないぞ、いつもいつも困ったらやってきやがって、たまには自分で何とかしろよ」とも言えない。
これは厳しい。
しかもアンパンマンはこれを毎回繰り返しているのだ。

表面的幸せにいる者の望む幸せ

このような、表面的には、「幸せ」に見えるが、言いたいことも言えない環境に生きている者が、自分を見つめなおして、「なにが君の幸せ なにをして喜ぶ わからないままおわる そんなのはいやだ」と自分に問いかけたくなるのも自然なことだと思う。
一度くらいアンパンマンをラクにさせてあげようよ。アンパンマンもたまには次のようなセリフを言ってみたいと思うよ。
「おっ、いいねえその考え。ぼくも一緒に加わらせてくれよ、お願いだよっ、バイキンマン

PS この解釈は、歌詞からそのようにも解釈できるというだけの話であり、作詞者の意図と合致するか否かは別ですのでくれぐれもご解無いようお願いします。