時々のこと

子どものサッカーについて。小学校から遂に高校までたどり着きました。その他時々のこととか。

アンパンマンとむしけら


「アンパンマンのマーチ」の「愛と勇気だけが友達さ」の歌詞は、一読しただけでは「アンパンマンっておかしなやつ」で終わってしまうが、その裏に深い意味が込められていそうなことは既に見たが、ちゃんと分析をしてみよう。

「てのひらをたいように」における"生きている"の二重性

この、「アンパンマンのマーチ」の作詞者にして絵本、アニメの原作者である、やなせたかし氏は、「てのひらをたいように」の作詞者でもある。別の項で触れているが、「てのひらをたいように」も奇妙な歌詞である。
「生きているから歌う」「生きているから悲しい」や「てのひらを太陽にすかしてみれば真っ赤に流れるぼくの血潮」と「生きている」とはどういうことかを具体的に示しながら、「みみずだって おけらだって あめんぼだって みんなみんないきているんだ ともだちなんだ」と、歌いもせず悲しみの感情もおそらく持たず、真っ赤に流れる血潮も無いむしけらも、「生きているんだ」と言ってしまい、更に「ともだちなんだ」とまで言ってしまう。
同じ「生きている」という語を、特に注釈せず2つの意味で使っている。
意図的論理破綻の中にある論理
このように「てのひらをたいように」も何かおかしい。これだけ読めば、論理破綻している。
しかし、このおかしさは、作詞者の意図するところである。
なぜなら、わざわざ「ミミズ・おけら・あめんぼ」なんて例に出すから破綻するのであって、「犬・猫・鳥」あたりを出しておけば、破綻しないわけだから。
また、この歌詞は、普通に読めば論理破綻であるが、次のように補足して読めば一応、解釈できる範囲に収まる。
つまり、
  ぼくらはには、感情があるし真っ赤な血潮も流れている。だからむしけらのようなあまりに弱いものをいじめてはだめだ。むしけらさえそうなのだから、弱い人を見つけたら、それにつけいってはならない。弱い人は友達だと思って接しなさい。

2つの歌詞の共通性

ここまで読めば、おぼろげに理解いただけると思うが、「アンパンマンのマーチ」と「ぼくらはみんないきている」の2つの歌詞のおかしさは、同じ思想の下で意図的に「おかしいと思われるように」書かれているのではないか。
なぜなら、この、普通に読むと歌詞の意味に違和感を感じる部分は、共に、「友達」というキーワードにおいて使用されている。
「愛と勇気だけが友達さ」及び「みんなみんないきているんだともだちなんだ」というように。
つまり、この作詞者は「友達」についての自分の考え方を主張したいがために、このように意図的な違和感を生みだす歌詞を作っているのではないか。

"友達"というキーワード

この「友達」をキーワードに両者の歌詞をよく見てみよう。

アンパンマンのマーチの場合

「愛と勇気だけが友達さ」
ここで、「愛と勇気」が出されていることが鍵となろう。「愛」は、人の感情の大きな部分を占める。友情も「愛」の形の1形態に過ぎない。だから、「食パンマンやカレーパンマンは友達じゃないのか」云々は、的外れで、それら友情の上にある、広義の「愛」を信条に生きているというのが正解であろう。
少々難しい構成だが、「友達は?」と聞かれて「食パンマンとカレーパンマン」と名前を挙げて答えるのではなく、その間に抽象的な「愛」を入れることにより、自分が「愛」を感じることができる対象は全て私の友達なんだと言っているのではないか。
それに、そもそもアンパンマンの友達って非常に多いから、一人一人名前を挙げてたらきりがないのもあるかもしれない。
そして、その愛を貫くには、勇気が必要であるということから、「勇気」が「愛」と並列に並べられているのである。「勇気」が無ければ「愛」というものは簡単に崩れるという前提があるように思える。だから、アンパンマンの考える「愛」の範疇から外れるだろう行為を繰り返すバイキンマンに対しては、結構容赦無い攻撃をしかけるし、あれほど毎回顔を合わせているにも関わらず、アンパンマンの分厚い友達リストには決してバイキンマンの名前はないだろう。

ぼくらはみんないきているの場合

さて、もう一方の歌詞を再度見よう。
「みんなみんないきているんだともだちなんだ」
ぼくらはみんな生きているから歌うとか悲しいとか言いながら、歌ったり悲しんだりという複雑な感情を持つとは思えない「むしけら」も生きているのだから友達なんだということの違和感。
これは、「ぼくら」の概念と「友達」の概念が一致しないことからくるのである。
作詞者のいう「友達」というのは、「ぼくら」よりはるかに広い概念なのである。
通常人であれば、「ぼくら」とは「自分を含む友達関係を含む何らかの人的関係にある人の集団」を指し、「ぼくら」と「友達」の間にそれほど大きな概念の差を見出さない。人によっては、「ぼくら」というのは「友達」関係がなくとも、利害関係があったりするだけで成立する。
つまり「友達」は「ぼくら」の1概念にすぎなかったりする。
だからこそ、この歌詞に違和感を感じるのである。しかし、一度通常の考え方を捨て、作詞者の考えでこの歌詞の意味を読んでみたい。そこにこそ作詞者の言いたいことがあるはずである。

「ぼくら」より広い「友達」の概念

「ぼくら」より広い「友達」の概念とは何か。
意思の通じ合えない、感情もほとんど無いと思われる対象を「生物的に生きている」というだけで「友達」と呼ぶのは、どういうことなのか。
ここで「アンパンマンのマーチ」を思い出してみよう。
「愛と勇気だけが友達さ」から「自分が『愛』を感じることができる対象は全て私の友達なんだ」という主張が読み取れると述べたが、この論理が「ぼくらはみんないきている」にもすんなり適用できるのである。
ぼくらは、複雑な感情もあるし赤い血潮も流れている。だからこそ、それにふさわしい生き方、つまり、たとえ相手には感情も無く赤い血も流れていなくとも生命あるもの全てに対し愛を持って接しなさい、友達だと思いなさい、と言っているのではないか。
更には、「ミミズ・オケラ・アメンボ」といった具体的対象を離れ、抽象的に「自分より弱いもの」に対して、その立場を利用した接し方をするのではなく、弱者にこそ「愛」を感じ、「友達」として接しなさいと解いているのではないか。
そのためには「愛」と同時に「勇気」が必要なのは想像に難くない。

一旦の結論

このように、「アンパンマンのマーチ」と「ぼくらはみんないきている」は、内容においてシンクロするのである。
これに対し、「アンパンマンのマーチ」では、単にアンパンマンの性格を言っているだけで別に啓蒙的ではないので、「ぼくらはみんないきている」での「ぼくら」という聞く者歌う者を巻きこんだ教条的立場の歌詞とは、同じではないという反論もできる。
しかし、やなせたかし氏は更に別な仕掛けを用意している。
「アンパンマンたいそう」という歌詞において「アンパンマンは君さ」という驚異的歌詞を織り込んでいるのである。
「えっ、おれアンパンマンだったの?」「君さと言われてもお腹の空いている人に自分の顔をあげることもできないし…」という突っ込みは、禁止なのです。そこに作詞者の罠があるのですから。
やなせたかし氏の歌詞は、「あれっ変だな」と感じた個所にメッセージがあると思ったほうが良いのではないか。

やなせたかし氏

「アンパンマン」については、歌詞だけでなく、絵本・アニメの話の内容にしても巧みに構成されており、よく分析されるべき偉大な作家であると考える。
ただし、幼児に思想的な刷り込みをどこまで踏み込んで行ってよいかという別な次元の課題はあるのを忘れてはならない。しかしこれは国語現代文の範囲を超える。