百田尚樹氏の「日本国紀」は、作家の津原泰水氏による批判と津原氏作品の出版企画の中止、出版側の見城徹氏のtwitter炎上と、色々外野が騒がしい。版を重ねる度の正誤表なき修正について、ニューズウィーク日本版が見城氏に突っ込んだインタビューをしている。これについて日本語的に気になる点がある。
【独占】見城徹「やましいことは一切ない」──『日本国紀』への批判に初言及占】(石戸諭,ニューズウィーク日本版,2019.5.28)
修正についての説明
ここで見城氏及び担当編集者が修正について述べているのだが、何か言っていることに違和感を覚える。
見城氏の論
「この程度の修正はよくあることでしょ。校正をいくら重ねても出てしまうもので、版を重ねて修正するのはどの本でも当たり前のようにあること」
担当編集者の補足
「校正について言えば、普通の本の3倍以上はやっています。通史で全部のファクトをチェックしていけば、校正だけで5年はかかります。監修者の協力も得て、一般書としての最高のレベルでやりました。それでもミスは出てしまう。それは認めるしかありません。
「校正」を重ねるということ
見城氏は編集のプロ中のプロである。また、担当編集者も編集のプロのはずである。そして2人とも「校正」という言葉を使っている。校正とは、誤字脱字がないかを確認することである。内容の正誤を確認して正すのは「校閲」である。
見城氏の見解は、まあ、外れてはいない。誤字脱字は、どうしても出てしまうから、重版の度に直すのは仕方がないと言っている。しかし、担当編集者が言っているのは、日本国紀は、普通の本の3倍の誤字脱字の確認が必要な原稿だった。「日本国紀」の全部の誤字脱字のチェックは、5年はかかるということである。つまり、「日本国紀」は、誤字脱字だらけの原稿だったと言っている。
巧妙な演出
しかし、百田尚樹氏はどんだけ誤字脱字ある作家なのだろうか。本は作家と編集者が作るとはよく言ったものである…などとは思ってはいけない。これは、見城氏へのインタビューである。それなのになぜ担当編集者が口を挟むのか。これは役割分担と考えるべきである。
泥を被る担当編集者
先に、見城氏の見解は外れてはいないと書き、一方で、担当編集者は日本国紀が誤字脱字だらけの原稿だったと言っていると書いた。これは、見城氏を守るために、担当編集者が泥をかぶったと考えることができる。つまり、修正に関するニューズウィーク日本版の質問は、内容の修正に関するものであったが、見城氏はそれを誤字脱字の話と(故意か否かは分からないが)取って、よくあることと回答し、それについては十分精査したのだがダメであったと担当編集者が具体的数字を出して補足している。この数字を見城氏の口から直接言うと、また炎上ネタになることを分かっていたから、担当編集者に言わせたということ。リンクした記事上では、担当編集者の発言があるのはここだけであることは、この考えを強化する。
あくまで「校正」の話しかしていないこと
いずれにせよ、ニューズウィーク日本版という一般人が読者となるインタビューに対し、見城氏も担当編集者も「校正」という語を使って修正について答えているのは、ちょっといただけない。質問で聞きたいのは、誤字脱字ではなく、中身の修正なのだから。これが、twitterなら良かったかも知れないけれど…だめか、twitterこそ炎上ネタになるのか。