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無差別殺傷事件の抑止力


2019年5月28日午前に川崎市の登戸駅近くで発生したカリタス学園の小学生とその保護者を襲った痛ましい事件。

舛添元東京都知事の呟き

これにつき舛添元東京都知事がtwitterで呟いている。

川崎市で児童らが襲われる痛ましい事件。登下校時の警察官の配置、警察OB の活用も手である。銃の所持携帯が禁止されている日本で、警察もアメリカのように手荒に鎮圧しないが、「人を襲えば射殺」くらいにしないと抑止力がないのでは?被害者より加害者のほうの人権を守る風潮をいつまで続けるのか。

Twitter

これはこれで考慮すべき観点とは思う。ただし、このような犯罪の場合、「人を襲えば射殺」は、逆効果の可能性もある。

抑止力とは異次元の犯罪

しかし、今回の犯人はわずか20秒足らずで襲撃を終わらせ、しかも直後に自殺しているという。このような犯人に対しては、抑止力の話では解決しない。自らの死を恐れることこそが抑止力の根幹であり、20秒足らずで犯人の自殺までたどり着く犯罪は、抑止力のカバー範囲外である。

抑止力どころか推進力となるかも

「人を襲えば射殺」どころか、襲って早々、自ら命を絶つという者に対しては、逆効果さえ考えうる。つまり、「人を襲えば射殺」が、抑止どころか推進力となる可能性もある。最終的に自らが死ぬことを前提に襲おうとする場合に、射殺されることが当然の帰結であれば、「射殺されるまで襲ってやる」という考えの者が現れても不思議ではない。死を覚悟している者にとって、自らを傷つけるより誰かにやられた方が恐怖が少ないという考えもありうる。やられるまでやるということになると、これは抑止力の真逆の力になる。ただし、抑止されるケースと推進してしまうケースの想定する発生確率の差から、敢えて「人を襲えば射殺」を選択するということも統計的な考えからはありうる。しかし、無差別殺傷事件は、発生件数からして統計的に処理できるようなものではないかもしれない。

犯人の背景

「人を襲えば射殺」とすると、結果的には今回の事件のようなケースと同じで、何故そのようなことが起きたのか解明できないままで終わる。抑止力と推進力のバランスが後者寄りになると事件が起きるが、何が抑止力になるのか、何が推進力になるのかを見誤ると、全く実効性がないどころか、逆効果のことさえ考えうる。

「人を襲えば射殺」というほど簡単ではない

その意味では、「人を襲えば射殺」でおしまいでは、解決せずに残る問題がある。twitterという制限ある中での呟きなので舛添氏の真意はもっと深いであろう。しかし、犯人を射殺せずに捕まえ、何故そのようなことを起こしたか明らかにすることも、犯罪の抑止につながるという考えもまた犯罪の抑止に意味がある。簡単ではない。