日本語と少年サッカー

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"何のための部活なのか"を問えない親の気持ち


「何のための部活動なのか?(学校教育で部活動をおこなう意味はどこに」というネット記事があります。これ、試合に出られない子の親にとって、コーチ、先生に問いたい切実な気持ちなのです。

記事

「競技の論理」と「教育の論理」

記事中の次の見出しが全てを語っています。

「競技の論理」と「教育の論理」というレンズに通して、部活動の姿を見ると、理解しやすい。

デタラメな教育の論理

教育の論理がデタラメの最たるものは、競技の論理を優先することを、真逆の教育の論理を使って肯定しようとする人がいることです。
「試合に出られない悔しさを持って練習しろ」とか「試合に出られるのは頑張ったからだ」とか言うのは、聞き飽きたと言うより、害悪だから禁止してほしいですね。
それを言うコーチ、監督、顧問に問いたいです。何であなたは日本代表コーチ、監督でないのですかと。頑張れば何でもなれるわけではないです。遺伝という次元で色々決まるのです。教育の論理を語るのであれば、その子なりの成長を評価しなければなりません。練習サボっても上手い子がいますが、そんな子をずっとベンチ外にできるコーチのみが教育の論理を語る資格があるといえます。

教育の論理万能説などない

しかし、だからと言って教育の論理万能説を取るべきということでもありません。なぜなら技術を競う喜びは、努力とは別にあるのだから。努力しなくともできる子はそれでも、できるのならばそれは評価されて良い。学校という場のメインである勉強も同じで、ろくに勉強しなくともできる子はいて、しかしその子は上の学校に難なく入っていく。それを、努力足りないからダメだというのはおかしい。まあ、公立中学校では、ノートの取り方とか授業中の態度とかが成績に加味されるそうだが、度を越すとおかしなことになる。

イチかゼロかが問題

要は、試合に出られる子はいつも出場し、出られない子は全く出られないということがダメということ。何も上手くないと認めているのだから、平等に出せとまでは言わない。しかし全く出さないのは教育的にみて、親として困るというだけのことです。でもこれ、教育を語るコーチ、監督、顧問であっても、全く考慮していないヒト多いですね。