ローマ教皇という人には、かなりの忍耐力が必要とされるということ。しかし、その理由につながる思考方法は今の時代感から見ると少し引っかかる。
記事
記事中の事実
一人の女性が突然、教皇の手をつかんで引っ張り、はなそうとしなかったため、教皇は女性の手をたたいて、ふりほどいた。
これで教皇が謝罪しなければならないのか。
謝罪の理由
しかし、謝罪の理由が少し微妙。
教皇は元日の正午の祈りの前のスピーチで「我々はしばしば忍耐を失う」と謝罪。
これは分かる。教皇自身が忍耐を失って叩いてしまったということだから。しかし…
その前のミサでは「女性に対するいかなる暴力も、女性から生まれた神に対する冒瀆(ぼうとく)になる」と語った。
これは現代では少し気になる考えではないだろうか。女性はか弱いことが前提になっている。この発想は、キリスト教的には問題ないのか。
「キリストも女性から生まれた」として、女性は尊重されるべきだと演説。「女性は平和の仲介者であり、女性がそれをもたらしてくれる時、世界はより結束し平和になる」
こちらもあくまで男性上位的発想である。「女性は平和の仲介者であり」というと一見女性を上位に見ているようだが、仲介が必要となる事態を生んでいるのは男性ということであり、世界は男性を中心に回っているという前提があるからこその発想なのである。「女性がそれをもたらしてくれる時、世界はより結束し平和になる」というのも同様で、男性世界を前提としたものである。