直接関係のない事実を組み合わせて、レバノン国内におけるカルロス・ゴーン被告に対する擁護論にかげりが見えると主張する記事。レバノン国内でのゴーン被告に逆風が吹き始めているかのような内容だが、弱い事実を意図的に並べただけの記事であり、ちょっと三段論法が過ぎる。
記事
三段論法の構造
「擁護論が陰りを見せている」という結論を導き出すために、次のような論理展開をしている。
まず、2つのゴーン被告に対するベイルート国内の2つの状況が書かれる。
1つ目がこれ。
逮捕後、首都ベイルートにはゴーン被告を支持する看板が立てられたが、現在は多くが撤去されている。
2つ目がこれ。
地元記者によると、逮捕直後は無実を信じる意見が支配的だったが「有罪か無罪か分からないと言う人が増えた」という。
次にゴーン被告と関係のない事実が書かれる。
レバノンでは昨年10月から汚職や腐敗に怒るデモが続き、首相が辞任を表明している。
これは国内のデモの話である。しかしこれを入れることにより、「擁護論が陰りを見せている。汚職撲滅を訴えるデモが同国で続いている」と結論づけている。これ、いくらお正月休み期間中の記事とはいえ、論理展開がひどい。
最小限の取材で最大限のキャッチーさを狙う記事
記者の方も取材不足というか、この記事の論理展開の酷さをもちろん自覚している。故に、この記事に対して、様々な小手先の細工が施されている。
何をもって陰りというのか
「逮捕時に多く聞かれた擁護論が陰りを見せている」と言うのだが、その根拠はというと、「逮捕後、首都ベイルートにはゴーン被告を支持する看板が立てられたが、現在は多くが撤去されている」と「逮捕直後は無実を信じる意見が支配的だったが「有罪か無罪か分からないと言う人が増えた」という2点である。
看板の撤去
単純に看板の効果が薄いと分かったから。もっと言うと、看板を立てることによる利益を見込めなくなったからと言うことだけである。わざわざ費用をかけて看板を立てると言うことは、何かを期待しているのであり、基礎に至って、少なくとも短期的には、利益が見込めなくなれば撤去されても不思議ではない。しかも、この看板の枚数も書かれていない。元々1枚だけしかなかった看板が撤去されたのか、多くの看板があって、それがどの程度撤去されたのか、全部撤去されたのかで、印象はかなり変わる。
有罪か無罪か分からないと言う人が増えた
これも、一見、擁護論の翳りに見えるのだが、『逮捕直後は無実を信じる意見が支配的だったが「有罪か無罪か分からないと言う人が増えたという』との記載が言っているのは、逮捕直後は、逮捕事実がよくわからない状態での意見であり、「有罪か無罪か分からないと言う人が増えた」というのは、起訴された事実をもって、裁判となれば有罪になるかもしれないと思う人が出てくるのはおかしなことではない。そもそも逮捕直後は「無実を信じる意見が支配的」であったのが、単に「有罪か無罪か分からないと言う人が増えた」だけであり、依然無実を信じる意見が大多数の可能性があり、それが書かれていない。「支配的」と「増えた」の定量的な評価が、この記事ではなされていないことが決定的な詰めの甘さである。例えば、支配的という状態が99パーセントとして、それが95パーセントになったら、陰りというのか、1パーセントが5パーセントに増えたとして、増えたとわざわざ言うのかということである。具体的な数字を出さずして、陰りが増えたと言うことが、記事として弱い。
デモは関係あるのか
汚職撲滅を訴えるデモが同国で続いていることも影響しているようだと言うが、ここがこの記事の主張の論理的根拠となりうるポイントになる部分にも関わらず、「ようだ」と推測の形をとっており、言い切っていない。しかも、デモについて具体的な記載もなく、デモの規模や態様など全く分からない。汚職について批判的なデモも、ベイルート国内での汚職に限る可能性はある。汚職批判は、自分たちが恩恵にあずかれないものを、権力を持つ者が奪っているからずるいと考える論理構造の元にある。そこには、自分たちが本来手にすべきものを奪われていると言う感覚がある。しかし、多重国籍者が、海外で行った不正疑惑は、そもそもベイルート国民が本来手にすべきものではないので、ずるいという感情は生まれ得ない。ベイルート国内の資産を奪っているわけではないのだから。この論理が弱いことを記者は分かっているので「汚職撲滅を訴えるデモが同国で続いていることも影響しているようだ」としか書けないのである。
写真
現地の雰囲気を伝えるはずの写真も、「カルロス・ゴーン被告の逃亡に関する新聞記事を見る若者」という見出しであり、ゴーン擁護論に翳りにという記事の内容を補足しない。この若者2人の考えを取材して書くことさえしていない。記事として成立させようという気が全くない記事である。
書き出しの論調
記事は『前日産自動車会長カルロス・ゴーン被告の逃亡先レバノンでは、国籍を持つ被告の「帰国」を喜ぶ声の一方で』と始まるのだが、この書きぶりもなかなかである。単に帰国と書けば良いところを、『国籍を持つ被告の「帰国」』と書くのは、ゴーン被告が、ベイルートのみならず、フランス、ブラジルの国籍も持ち、その三ヶ国の中からベイルートを選んだことに対する批判的なニュアンスをにおわせている。もともとブラジル出身であることを知っていることが前提の括弧付きの「帰国」という表現なのである。
肝心なところを断定しない記事
「影響しているようだ」「『有罪か無罪か分からないと言う人が増えた』という」と、記事のポイントとなるところで、断定はしない。結局この記事は、誰かが言っている、自分がそう思うということをフワッと書いて、それを根拠にゴーン被告がベイルート国内の支持を失いつつあると言っている。もしこの方法をとるのであるのであれば、もう少し根拠と言えるように、具体的に書く必要がある。ふんわりしすぎである。ある意味お正月休み期間にふさわしい読み物ではある。