時々のこと

子どものサッカーについて。小学校から遂に高校までたどり着きました。その他時々のこととか。

ヌード講座は悪くない〜ヌード講座は「セクハラ」


京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の公開講座で開講された会田誠氏らのヌード講座は「セクハラ」であるとして、大学に請求約330万円に対し約35万円の賠償を命じた。そこに色々考えろというのが裁判所の判断なのだろう。芸術性とわいせつ性とセクハラを含んだ裁判でありながら、事前に内容の告知があればセクハラに当たらないとなりうる結論で、焦点の定まらない裁判。従来は、芸術かわいせつかという全体的な議論であったが、これにセクハラという個人の視点が加わっており、問題は複雑化している。ゆえに、このような裁判の積み重ねの重要性は分かる。

記事

見出しだけだと、誤解を招く。

ヌード講座に参加した原告の言い分

講師からわいせつな作品を見せられ精神的苦痛を受けた

ヌード講座なのでヌード作品を見せられることは承知していたはずで、「わいせつな作品」だから精神的苦痛を受けたと言っている。つまり、講座で使用されるヌード作品にわいせつな作品は含まない前提で参加したのに、わいせつな作品が含まれたので精神的苦痛を受けたと。

ヌード講座にわいせつ性の議論は避けられないと言えるが、それは、「セクハラ」とならない範囲でということなのだろう。この原告は、わいせつ性の議論もなく、ヌードの芸術性のみの講座と考えたのだろうか。そうであれば、前提知識にかけているといえるが、それに対しては、「講義内容を事前に告知するなどの義務を怠っため」になるのか。大学が行う公開講座で、そこまで求められるのかという気がしないでもない。そもそもヌードの芸術性とわいせつ性の議論が過去何度もあったことを踏まえると、大学で行われる講座において、この議論がなされることは前提知識として持って欲しいところだが、公開講座であると、それを持たずに参加することも問題ないとするのか。

講師

会田誠氏も鷹野隆大氏も知名度も実績もある作家であり、このテーマの講座には大切な人選と個人的には思う。そして、彼らをちゃんと講師として呼んだことは、非難されるようなものではない。

確かに会田氏の少女虐待のような絵や鷹野氏のそのまま描写した写真は、見たくないものには苦痛であるというのは理解できる。

鷹野氏は、2014年愛知県美術館の「これからの写真」展において愛知県警よりわいせつの疑いありとされた際の対応という経験を有している。会田氏は検索すれば、色々わかる。その点からして、ヌード講座の講師の人選としては、繰り返しになるが、間違いとは言えない。どちらかと言えば、現時点で間違いのない人選である。

請求に対し認められたのは10分の1

原告は、勝ちはしたけれど、請求約330万円に対し約35万円だから、10分の1。講座にかかった経費より少ないだろうから、金額的にはあまり問題ないだろう。訴訟費用は別にかかっているだろうが。

講義内容を事前に告知するなどの義務を怠った

論点はこれに尽きる。ある人にとって衝撃的なものを見せたことが問題ではなく、その類いのものを見せるなら先に言ってくれということ。加えて、退出の自由を与えてくれということ。美術大学の公開講座で、受講者に対しどの程度の前提知識を求めるのかということにもつながる。しかしでは、大学はどの程度の内容を事前告知すれば良いのか。難しいと思う。ヌード講座の事前告知に「性表現が含まれます」という告知があったとして、じゃ受講止めるかという人は、そもそも受講しようとは思わない人であろう。

個人の性的自由は勿論尊重すべき

これは大前提。しかし、例えば芸術論の講座でいきなり1時間性器の写真を見せられたというならともかく、ヌード講座と題した講座でのそれは、予見可能ではないか。そして、すくなくともそれら作品は、日本国内において、批判もあるが芸術として認められているものである。それを見せられ続けることがセクハラと感じるのも自由である。裁判も退出する自由がなかったとかそういう運営上の問題を問うていて、芸術とわいせつや、芸術とセクハラには直接結び付けられていないので、なんともわかりにくい。

約330万円、約35万円…約?

これ、約とわざわざ書いているのは、端数があるからなのだろうけれど、何だろうと気にはなる。キリの良い数字でないのは、何か受講料や交通費のようなものを請求しているのだろうか。不明。