日本語と少年サッカー

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泳げたいやきくんは論理破綻


泳げたいやきくんという曲をご存知でしょうか。
昔々はやった曲で、子供の童謡集によく入っている歌です。
というよりもこの曲が流行ったころには生まれてもいない方が多いと思います。
おそらく親かひょっとしたら祖父母世代だと思います。
今回はこの歌詞を分析してみましょう。

この歌詞は、毎日鉄板の上で焼かれる「たいやき」が、ある朝、たいやき屋のおじさんと喧嘩して海という知らない世界に逃げ込み、冒険した挙句、最後は釣り師に釣り上げられ食べられるという話です。

個としての同一性の問題

この話はのっけからやってくれます。
「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれていやになっちゃうよ」
だそうです。
ここで「だるい感じ」を出しておくことで、次のたいやき屋のおじさんと喧嘩して海に逃げ込むことに対して理由を与えるのですが、これはおかしい。毎日焼かれているのは僕らであって僕ではない。つまり1個のたいやきとしてはそれぞれ独立した個体が焼かれているだけで、その個々のたいやきが焼かれるのが嫌になったと飽き飽きするのはおかしい。輪廻転生にもほどがある。これは、ある産院で生まれた赤ちゃんが毎日毎日生まれて嫌になっちゃうよと言っているようなものである。しかしこれに対しては曲を聴いている時にはあまり意識されない。それはなぜかというと、人はたいやきを個々に認識しているのではなく、どれも同じ「たいやき」という総称で括ってしか認識していないからです。たいやき屋では毎日同じたいやきというモノが焼かれており、それぞれのたいやきには個人識別名はない。だから「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれていやになっちゃうよ」と言われても違和感を覚えない。
しかし、これはたいやきが焼かれているのを見ている人の視点である。たいやき側の視点では、それぞれのたいやきがそれぞれのアイデンティティを持っているのであるから、「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれていやになっちゃう」というのはおかしいのである。つまり、この歌詞は、たい焼き側の気持ちを歌っている様で、それを作る側の気持ちを歌っているのである。どちらかというとたいやき屋のおじさんのほうが「毎日毎日僕は鉄板でたいやきを焼いていて嫌になっちゃうよ」と言いたいだろう。

何もかもが初めて

この歌詞に続く「初めて泳いだ海のそこ」というのもあたりまえである。泳ぐのが初めてというだけでなく、喧嘩したのだって、はたまた焼かれたのだって個々のたいやきにしてみれば初めてなのだから。だから海のそこを泳いだことだけ初めてとつけるのは聴く者をミスリードするための技法に過ぎない。
まずたいやきくんは所詮たいやきである。
原料は、小麦粉、小豆、砂糖、植物油くらいであろう。すべて植物性である。
これが、喧嘩する、逃げ込む、海を泳ぐ等と言うことは可能なのであろうか。まあ、植物でも食虫植物やひまわりのように自力で動くものがあるが、外的刺激に対する単なる反応であり、自分の意思で動くということはしない。
しかしこの植物由来のたいやきは感情も有すれば行動もする。なかなかのものである。

釣り上げられるたいやき

たいやきくんは最後に釣り針に引っかかってしまう。
釣り上げたおじさんとたいやきくんの対峙。
「やっぱりぼくはたいやきさ すこしこげある たいやきさ おじさんつばをのみこんで ぼくをうまそにたべたのさ」というのである。
涙を誘う壮絶な最後である...しかしこれもおかしい。
この状況をイメージして欲しい。釣り師のおじさんは竿にかかった獲物をみて「おっ、たいやきがつれた。うまそうだなあ」と思うであろうか。
釣れたのは、焼かれてから時間も経ち、しかも海水の中にどっぷり浸かったたいやきである。これを何のためらいもなく「うまそにたべた」ということは尋常ではない。
実際の光景を想像すればこの悲しい最期は、こっけいですらある。絶対にありえない。

非現実的な表現も全てメッセージのため

しかしこのシーンは、「やっぱりぼくはたいやきさ すこしこげある たいやきさ」を言いたいがため現実性を超えても必要であった。つまり、「やっぱりぼくはたいやきさ すこしこげある たいやきさ」は、自分の本分を悟り、自分の運命を受け入れろということだ。たいやきなのにたいやき屋のおじさんと喧嘩してはいけないのだ。たいやきなのに海を泳いではいけないのだ。たいやきはうまそうに食べられるものなのだ、という運命を受け入れろというメッセージを伝えたい歌詞だったのだ。

矛盾だらけでも感動が成立する不思議

―――高度成長期の末期らしい歌である...なんていうのはイージーであるけど、まあそんなものだろう。
以上、泳げたいやきくんは現代文的解釈を施すと歌詞に多くの矛盾が生じていることがわかります。しかしそれを気づかせずに全体として感動的なまとまりを持っているから不思議です。これはつまり全体構成が一貫しているために個々の表現の矛盾を気づかせないと言いかえることができるかも知れません。