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「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」のセミの種類


「しずかさや…」は、松尾芭蕉の有名な俳句。これは現代文とは言えないですが、俳句の解釈というのは、与えられた短い文章を理解して解釈を導くものという点で、現代文の問題解釈と似ているし、使用されている言葉に特別難しいものはないので、予備知識なくても理解できると思います。

しかしこの句は、既に多くの研究者に研究されていて、何か言ったところで、学術的観点からは間違うことこそあれ、益あるものではないでしょう。それで、解釈から離れ、この俳句を見てそれぞれの人がどう思うのかについて考えて見たいと思います。

「しずかさ」を感じさせる蝉の声とは

「しずかさ」を感じさせるような、いわにしみいる声を出す「せみ」とは、一体、何という種類の「せみ」であったのだろうか。
アブラゼミ?クマゼミ?ミンミンゼミ?ツクツクボウシ?ヒグラシ?その他?
色々な種類の「せみ」の鳴き声を知っているほど、「あのせみのこえは騒々しくて静かさを感じさせるものではない」とか、
「こちらのせみの声は真夏の暑い中の静かさを感じさせるが、そちらのせみの声は夏の終わりの夕暮れ時の静かさを感じさせる」とか想像に広がりをもたせてくれます。

せみの種類は何でも良い

実際に芭蕉が書いたセミの種類は何かということから離れ、国語現代文的に各自が鑑賞する場合、多くの種類の「せみ」の鳴き声を知っていれば知っているほどこの句を味わうことができると言えます。しかしアブラゼミの鳴き声しか知らなくとも、楽しむことができる。ある人はこの「せみ」の鳴き声としてミンミンゼミを、またある人はヒグラシを想像するかもしれない。その場合、イメージされる情景は全く異なるであろうが、両者ともこの句を元に自分が想像した情景に面白さをみつけることができる。芭蕉は、故意に「せみ」の名前を伏せたことでこの句を誰もが味わえるものにしたのであろう。

アブラゼミとひぐらしでは印象は違う

しかし、各自が楽しめば良いとはいえ、アブラゼミとヒグラシではこの句の印象は違う。

アブラゼミの場合

想像が容易であると思うが、実際その場にいたらかなりうるさいはずである。そう言ったところに「しずかさ」という語を持ってきたところが楽しいのである。「しずかさ」というのは、聴覚に関するものであり、一方、「いわ」は視覚に関するものである。この視覚に関する「いわ」に「しみいる」というのであるから、雨等の液体と考えるのが普通であるが、そこに目に見えない音を持ってきたところが良い。また「いわ」は動かない。セミも見えないところで泣いているのだろう。そうすると、視覚的には、全く動きがなく静的な情景なのである。全く動きがないのであるから、セミの声以外に他の音もないのであろう。一方で、聴覚的には、アブラゼミであればかなりうるさいので、「しずかさ」という語は全く当てはまらない。そして、視覚的に静的な場合には「しずかさ」という語は通常使われず、聴覚的にしずかな場合に使う語である。この辺りの「しずかさ」という語の使い方を面白いと感じることができれば、国語現代文的にはそれで良いでしょう。

ヒグラシの場合

一方でヒグラシだった場合は状況が異なる。ヒグラシの鳴き声には、アブラゼミのイメージと異なり騒々しさはない。ヒグラシは、アブラゼミと異なり、遠くで鳴いているのを聞くイメージが強い。故にこの「せみ」がヒグラシの鳴き声だとすると、アブラゼミの時のような、視覚的、聴覚的なギャップはなく、全体的に「しずかさ」を感じやすい句になる。いずれにせよ、音以外に時間の経過に伴うものが何もない状態を、音を表現する言葉である「しずかさ」で表すところがこの句の肝である。