時々のこと

子どものサッカーについて。小学校から遂に高校までたどり着きました。その他時々のこととか。

「てのひらを太陽に」の謎


この歌詞は、人に限らず命ある生き物全てが幸せに暮らせるようにしよう、生きとし生けるものは全て友達なんだというメッセージを有するものである。このメッセージが教育的道徳的見地からみて「善い」とされるので、教育現場で歌い継がれているのだろう。この「メッセージをストレートに、誰にでも理解できる形で押しだす」歌詞の構成に脱帽である。ミミズ、オケラ、アメンボにまで友情を感じろとこの短い歌詞中で言っていながら少しも「説教臭さ」を感じさせない。
素晴らしい(歌詞の意味を言っているのではなく歌詞の構成が)。

しかし、その歌詞を国語現代文的に見ると、このストレートさが巧妙に計算されたものであることがわかる。
以下、それを見ていこう。
1 ぼくらはみんないきている いきているから うたうんだ
2 ぼくらはみんないきている いきているから かなしいんだ
3 てのひらを たいように すかしてみれば まっかにながれる ぼくのちしお
4 みみずだって おけらだって あめんぼだって
5 みんなみんな いきているんだ ともだちなんだ
解釈の便宜上、歌詞を上のように5つに分け、それぞれに番号付ける。

全体の構成

文の区切りとしては、1,2,3、4&5(2つで1文)の4つに分けられる。
これらが「起承転結」の構成に当てはまるかを検討しよう。
1は始まりなので、「起」とすることに悩みは無い。
2は1の内容を受け継いで、生きていることに関し1と違う例を提示すると言う点で「承」といえそうである。
1、2までは生きていることの例として「うたう」という行為と「かなしい」という感情を挙げている。
3では唐突に手のひらの内側に流れる「血潮」の話となる。唐突さから3は「転」といえそうである。
そして4で今度はミミズ、オケラ、アメンボのムシを列挙し、5において、それらもみんな生きており、友達なんだと結んでいる。これは確かに「結」といえる。

「転」はどこ?

しかし、「起承転結」の「転」に着目すると、3は、単に生きている例が精神的なものから肉体的状態に移っただけで、内容的には「生きている兆候の例」が追加されたに過ぎない。
それに比べ、4は、それまでの歌詞から全く予想できないムシの名前を並べると言う意外な作戦に出ている。
内容的にはここが「転」であろう。そして、このムシがなぜ列挙されたかの理由が、5で分かり全体として落ち着くと言う構成である。

この場合、1、2合わせて「起」となる。
つまり、「起」は感情面における生きていることの例証を挙げ、3の「承」では、それを継いで、肉体面における生きていることの例証を挙げるという形式を取っている。

起承転結の整理

以上から、この歌詞は、4つの文で構成されているが、それを内容で「起承転結」の解釈をすると、
文それぞれに「起承転結」が対応するのではなく、
「起」 : 第1文(1のこと)、第2文(2のこと)
「承」 : 第3文(3のこと)
「転」 : 第4文の前半(4のこと)
「結」 : 第4文の後半(5のこと)
というちょっとおしゃれな構成となっていることがわかる。きれいな「起承転結」の構成である。これが、分かりやすい歌詞の理由であろう。

何かおかしい

仕組まれたトリックは内容面の解釈に入ると出てくる。
1~3までは特に違和感無く歌詞が流れる。生きているとはどういうことかを一つ一つ挙げているだけであるので。
しかし、4でちょっと変なことが起きる。
それは、列挙される生き物が全てムシであることである。
なにが、おかしいか。
それまで、生きているとはどういうことかという例で、「歌うという行為をすること」「悲しいと思う感情があること」「手のひらに赤い血潮が流れていること」の3つが挙げられている。
しかし、この全てがムシには当てはまらないのである(ミミズは赤い血だった気もするが)。

なぜ犬猫像でないのか

ここに列挙される生き物が、「犬だって、猫だって、象だって、友達なんだ」というように哺乳類であれば、まだ分かる。
もう一歩譲って、カラス、スズメ、ペンギンといった鳥類でも理解できる。鳥には自分の子を育てるという「愛情」がみられるし、赤い血が流れているから。
しかしこの歌詞は、そんな生やさしいところで抑えてくれない。ムシのレベルまで対象を広げてしまっているのである。

ミミズは歌えるのか?

ミミズに「歌う」ことができるか。
オケラに「悲しさ」を感じることができるか。
アメンボに「真っ赤に流れる血潮」はあるか。
どれも、否定せざるを得ない。つまり、このムシの名前の列挙は、歌詞のそれまでの部分を受けたものではなく、全く関連を持たずに出てきたものである。そういう意味ではこの部分は、内容的に「転」であることが確認できる。

なぜムシなのか?

では、なぜ「ミミズ、オケラ、アメンボ」なのか。なぜ「犬、猫、象」でないのか。
ムシには、おそらく喜怒哀楽はなく、赤い血も流れていないので、その意味では「生きている」とは言えない。しかし命があるという意味では「生きている」。
そんな相手にさえ「みんなみんな生きているんだ友達なんだ」というのはどういうことか。
それはつまり、
  相手が、感情をもたなくても良いではないか、
  それでもこちらから友情を示すべきだよ、
とこの歌詞は言っているのではないか。
さらに拡張解釈して、「あいつは人じゃない」「ムシケラ同然のやつだ」だからやっつけてしまえ、と列挙されたムシがいわゆる生き物としてのムシを指すのではなく、比喩としてどうしようもなくひどい人々を指すと理解することは行き過ぎではなかろう。

博愛精神

こう解釈すると、この歌詞は、ひどい人々も喜怒哀楽はあり、赤い血が流れているんだから、ひどいからってこちらもひどい扱いをするというのはよくないよ、友達として接しなさいよ、殺気だってはだめだよ、無抵抗主義でいきなさいよ、と訴えていると理解できるのである。
これが正しい解釈なのか自信が全く無いが、この歌詞において、哺乳類でなく、ヒトと生物学的にかなり離れているムシのみが列挙されている点は、見過ごしがちであるが重要な意味をもつと考えられる。