日本語と少年サッカー

広く日本語に関わることとサッカーについて

どうにもならない成長差


受け入れるしかない現実

生まれ月や成長期突入タイミング。
これによる身長、運動能力差。
これはどうしようもないことで、受け入れるしかないこと。体力、運動能力の差は体格に依存する面が大きい。
これについて言い訳的に言われるのは、4月生まれであるとか成長期が早く来たために他の同学年の子より体格、スピードに優れる子は、それに頼ったプレイになるのでサッカーの技術的成長が、体格に劣る子に対し小さい。このため、早生まれであったり成長期が遅い子が早い子に体格的に追いつく高校時代には、成長が早かっただけの子は、体格、スピードの優位性がなくなるので、結局サッカーの技術差勝負となるため、埋もれてしまうという。

今この時に試合に出たい、出させてあげたい

だから体格的理由でサッカーの試合に出られないからといって悲観せず、練習を続ければいつか報われるかもしれないよと言われる。

確かにその通りであろう。しかし、小学生時代にサッカーやってるからといって高校までやるとも限らない。将来、高校で弓道をやることになる子は、小学校時代にせっかくサッカーをやりながら、サッカーの試合の醍醐味を味わえないままになってしまうけれど、それでよいのだろうか。

成長差の言い訳は親は考えるべきでない

体格の問題は、いつか追いつくし、最初から大きい子は技術習得的に不利になることもあるから悲観するな、というのは子供に慰めの言葉としてなら構わないが、親としてはそれに納得したくはない。10歳程度の子に18歳になれば体格差は追いつくから、今試合に出られなくても心配せず練習しろといっても、物心ついてから生きてきた年月と同じだけ頑張ったら試合に出られるよと言ってるわけで。
そもそも同級生で成長早い子は今すでに試合に出ていることを忘れてはならない。あまりに当たり前のことではあるが、成長が早いというのは、サッカーを行う小学生にとって有利なことなのである。高校で追いつくかもしれないなどというのはここで考えるべきことなのだろうか。そうではなく、体格差はあるのだから、それを受け入れて今試合に出られる方法を探すのが親の仕事だと思う。

今のベストは何か考える

ではどうすべきか。 コーチの頭には体格とポジションのステレオタイプ的結びつきがあることが多いだろうから、それに従うか、意外性の逆を行く方法を考えると、目立つだろう。とはいえ、おそらく意外性の道よりステレオタイプ的道の方が進みやすいと思うけれど。

しかし今体格的、体力的に劣る子が、成長期終わる頃には、体格に優れ体力の塊になっているかもしれない。だから小学生時代に背の低い子がセンターバックを経験することもよいことなはず。よく考えると、小学生時代にも試合に出たいという子がいるのと同様、高校時代に追いつかれ、並かそれ以下になってしまうであろう成長の早い子は、ひょっとしたら高校では試合に出られなくなるかもしれないので、小学生時代に試合に出られる楽しさを味わう権利があるということもできる。

親は自分の子だけを考えても良いがコーチはそうはいかない

チームの子供全員について考える必要のあるコーチと自分の子供だけを見る親とは、自分の子に対する考えが違うのは当たり前。親は自分の子をどうしたいのかをよく考えて教育しなければならない。しかし、成長期の遅い子が小学生時代は試合に出られなくても、それは後々追いつけるのだから問題ないと考えるのは、やはり発想としておかしいと考える。