時々のこと

子どものサッカーについて。小学校から遂に高校までたどり着きました。その他時々のこととか。

走れメロス~太宰のワナ。戦時の政治批判小説として


走れメロスは良くできた仕掛けが満載である。
裏読みのネタには事欠かない。

すでに見たが、走れメロスでは王様が本当は最初から良いやつだった可能性があるのである。
もしそうだとした場合、では、なぜ王は人を信じられないのだろう。

人を信じられなくなってしまった王

物語からは、王は「人を信じられない人間」ではなく「人を信じられなくなってしまった人間」と読める。
以前は華やかだった街がしんとしてしまっているというエピソードの中には「新王になってから」というような但し書きがないので、同じ王の時代だと思われる。であれば、何か理由があって以前と変わってしまったことになる。

人を信じられなくなったのはいつからか

物語の時系列を考えてみよう。
王はいつから人を信じられなくなったのか。
注意すべきは、物語の中で、王は人を信じることができないとは書いてあるが、なぜ信じられなくなったかは書かれていない。メロスが前回町に来たときには町は活気にあふれたというわけだからそれ以降に何かあったはずなのだがその言及が無い。

状況証拠

しかし状況証拠からは、以下が考えられるのではないだろうか。
人を信じられないから人を次々と殺しているのではなく、王に反逆すると死刑になるということを知らしめ、今後の無用な反逆を抑えることを目的として見せしめ的に妹婿を殺したにもかかわらず、その後も自分に刃を向ける人間が続出し、次々に殺さなくてはならなくなった。それが故、人を信じられなくなったのではないだろうか。
つまり、
人を信じられないから人を次々と殺す
のではなく、
  自分の野望・欲望の為に現王の政治の転覆(=国家の安定を乱す行為=死刑相当の罪)を企てるような人間が後を絶たないから人を信じられない
と考えるわけです。
そうであれば、王は心優しい悩み深き人間であるといえる。
しかしメロスにはそれがわからない。「人殺しは絶対にダメ、人を信じないのも絶対にダメ」としか考えられないから。

作品発表時期の意味すること

これが、日中戦争終結の目処が立たずかつ第二次大戦の前の年である1940年に発表されたことは重いの。
「人殺しは絶対にダメ、人を信じないのも絶対にダメ」が、「人命最優先」ということで戦争批判をしているということではない(もしそうであれば、「走れメロス」は発禁処分となって大変なことになっていたであろう)。
太宰はそんなに単純ではない(って「走れメロス」を「美談」として考えればそれはそれは単純な話だけれど・・・・)。 「人殺しは絶対にダメ、人を信じないのも絶対にダメ」というような物事を抽象的な次元において決め付け、他の多様な意見や個別具体的事情による例外を許さないような考えに、最後は絶対的権威である王まで感化されてしまうという物語を提示することで、多様な政治意見や個別具体的事情による考え方を許さないような当時の軍部・政府の「全体主義」的考え方に国民が引き込まれていっている当時の風潮を皮肉っているように思えてならない。